中央山 高福寺の歴史
この高福寺は、浄土宗で京都市東山にある知恩院の末寺にあたります。
戦国時代の中頃、天分十二年(西暦1543年)に落合宿脇本陣の塚田家先祖に当る市岡喜平治さんによって創建されました。
落合村で一番最初にできた公共施設です。それから100年ごとに、4回にわたって本堂を立て直し、現在の本堂は昭和五十四年に新築しています。
本尊は中央の阿弥陀如来の座像、向かって右側に観音菩薩の立像、向かって左側に勢至菩薩の立像で阿弥陀三尊です。本尊造立は享保四年(西暦1719年)、両菩薩造立は寛保三年(西暦1743年)、仏師は木曽福島の作内十兵衛さんです。この寺の十一代目住職の廊誉上人と十二代目住職の長誉上人により開眼され現在に至っています。
本尊である阿弥陀三尊の左右に座っている僧侶の座像は、善導大師と法然上人で元禄五年(西暦1692年)に造立しています。
尚、開山当時480年前の阿弥陀仏三尊仏は少し小ぶりの立像である。
この頃寺の境内の広さは藪や林を含めて二町四方あり、その中に田畑三段歩があったと記録されています。
本堂前庭の西側に、聖徳太子を祀る石像の祠(享保十五年(西暦1730年)願主加納傳左衛門)があり、筆塚とも呼ばれ、習字の上達を願って筆を納めてきました。
並んで立っている記念碑は塚田扇頌徳碑で、落合村の発展に貢献した塚田弥左衛門の功績をたたえた碑文です。今、山の田から与坂一帯に水田があるのは、この弥左衛門さんが上ノ山用水を引いてくれたからです。
鳥居の奥にある福蔵稲荷は文政八年(西暦1825年)に十七代住職典澄上人が豊川稲荷から迎えてきたものです。
典澄上人は落合で初めて寺子屋を始めました(天保~文久年間、寺子は三十五名)。その後、明治にかけて俳人の鈴木喜赤さんたちが後を引き継ぎ、明治五年新政府により学制が発布されると、この高福寺に「孜汲舎」という名の小学校を開設しました。翌年には、生徒増加のため善昌寺に移り、明治十九年に現在の小学校の場所へ移りました。(文責 大西 泰裕)