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​ 中央山 高福寺の歴史

 この高福寺は、浄土宗で京都市東山にある知恩院の末寺にあたります。戦国時代の中頃、天文十二年(西暦1543年)に落合宿脇本陣の塚田家先祖に当る市岡喜平治さんによって創建されました。

 福蔵稲荷(ふくぞういなり)・・・

平成29年11月14日 縁起

 高福寺の福蔵稲荷は、この寺の第17世教誉典澄上人が、落合宿の名士と共に、文政8年(1825)お寺の守護神として、又 町民の福徳開運・家門繁栄・火盗双除・万難消滅を願って、「豊川稲荷」から勧請し建立しました。

高福寺の『福』の一字を入れて豊かで幸せな暮らしを願って「福蔵稲荷」と改名しました。

御神体は「咤枳尼眞天」で、インドの古代民間信仰に由来する仏教を守護する女神です。豊川稲荷の縁起によると、「 鎌倉時代 禅僧が入宋し、文永4年(1267)帰国の途上、咤枳尼眞天の加護を受けたのがきっかけとなり、咤枳尼眞天を御法神(仏教を守る神)として尊崇するようになった。」と伝えられています。御姿は白狐の背に乗り稲束をかついで宝珠を持ち岩の上を飛ぶ天女の像形です。

 豊川稲荷は、日本三大稲荷のひとつに数えられ、商売繁盛の神様です。戦国時代から江戸時代に織田信長・豊臣秀吉・今川義元・徳川家康などから加護を受け、渡辺崋山・大岡忠相など厚く信仰を受け、また、皇族では有栖川家等も帰依し、明治初年に「豊川閣」の扁額を寄進されたことから、別名を豊川閣とも呼ばれる様になりまた。江戸時代から庶民の間で商売繁盛や家内安全・福徳開運の神様として全国に信仰が広がり、現在も年間数百万人もの参拝客が訪れています。

 高福寺が豊川稲荷を勧請した江戸時代後期に、全国の多くの寺院が同じ様に豊川稲荷をおむかえしています。また、旧中津川町宿の名士が豊川稲荷の参道に三メートル近い大きな石灯籠を寄進したのもこの頃です。ちなみに落合では医王寺、阿木の萬嶽寺にも同じお稲荷様が現存しています。善昌寺ではかつては寺にあったが、いつの頃か、今の杉松稲荷の地に移転したそうです。            ( 文責 大西泰裕 )

 玉依姫(たまよりひめ)・・・

女性が美しくなる神様として有名です。

又、多産や豊穣のシンボルとして考えられて来たことから、

安産子宝の神として祀られています。高福寺の玉依姫は、

嘉永5年に建てられたものです。 

 「神格」  水の神 海の神 聖母神

 「ご利益」 子宝 安産守護 豊作豊魚 災難除け 

 

 

  

 筆塚(ふでづか)・・・

江戸時代に寺小屋があった高福寺には多くの方が字を習いに来ており、

その時使われた筆がほこらの中に納められています。

ここから筆を借りて字を習うと、上達するとも言われています。

高福寺の筆塚は享保15年に建てられたもので、

ほこらの内部には木造の聖徳太子像が祀られています。

 

 西国三十三観音(本堂内)・・・

明治40年、弘法大師を信仰する

大師講の方々によって安置された33観音像が高福寺にあります。

(第1番札所から第33番札所)

 

 

 

 恵那中部新四国八十八カ所霊場 第40番目・・・ 

関東大震災の被害と死者の多さを悼み神仏のご加護を願うため、

中津川市の徳増コサクさんが、四国八十八カ所を模し、

四国八十八カ所札所の砂を各々壺に入れて納め、大正13年に開設したものです。

高福寺は第40番目の札所で、弘法大師と薬師如来が祀られています。

 俳人 嵩左坊のお墓 1773〜1856年・・・

嵩左坊(すうさぼう)は松尾芭蕉の門人が開いた美濃派の俳人で、

東美濃から木曽路にかけて俳諧の宗匠として活躍しました。

中山道の落合宿の出身で、高福寺の墓地に眠っています。

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